新しい魔球

「なおや、はさみとってこい」
「うん」
僕には2つ年上の兄がいる。まだ小さかったころ、兄からしょっちゅう用を命ぜられた。掃除をしろ、引き出し開けろ、裏が印刷されてないチラシを探せ、云々。用を足さないと頭をはっつけられた。痛かった。
それから兄は突然僕に抱きついてきては接吻の雨を降らせてきた。渾身の力で抵抗を試みるのだが2歳の差は如何ともし難く、憐れ我が唇、年の近い兄に奪われた。しかも何度も何度も。
弟ってやだなあ。それが3歳のときの兄弟というものに対する感想。
兄と僕は対照的だ。兄はスポーツ万能、少年サッカーでは地域の得点王で、マラソン大会では常に上位10傑、鉄棒を足で回ることができた。腹筋はもちろん縦に割れていた。目鼻立ちがはっきりしていて色黒、足が長くて細身のパンツがよく似合う。それでいて奢るところは無く、優しいと評判だった。だから、昔からよくモテた。
僕はというと運動はからきし駄目。サッカーでは下手すぎてコーチに苛められ、マラソンは後ろから数えたほうが早い、逆上がりもベソかきながら暗くなるまで特訓させられてやっとできた。9歳ごろから肥満児で3段腹。のっぺり顔、青白い肌、それでいて足だけぶっといずんぐりむっくり。短気で有名だった。もちろん当時モテなかった(今もだけど)。
まるで違う二人だけど、兄弟ですというと人からは「あーなるほどねーわかるー」と言われる。なぜかと訊けば雰囲気が似ているのだという。不思議なものだ。
ずっと兄と一緒だった。いろんな遊びをした。野球、サッカー、アメフトごっこ、プロレス、相撲、バドミントン・・・全部兄が勝っちゃうから僕が泣いてラフプレーに走り、喧嘩になる。でも次の日にはまた遊んだ。
サッカーボールで家の窓ガラスを割っちゃって母に怒られて、二人でお小遣いを全部出して「これで窓直して」って泣いて謝った事がある。母は驚いて、そして優しく慰めてくれた。
スイミングスクールのバスの時間を間違えて二人でとぼとぼ歩いて帰った。8キロくらいあったと思う。半べその僕を兄はずっと励ましてくれた。
家に犬が来ると決まった日、名前をどうしようかキャッキャ言いながら話し合ったっけ。トムと名づけられたその犬は兄によくなついて、兄がいくと仰向けになった。僕はよく噛まれた。
就職と進学の間で迷っていたとき、夕暮れの車内で運転席の兄が言った「もうちょっと好きに勉強しろよ。それに、俺より前に就職するな(笑)」兄は人より数年多く勉強して資格を取り、今は人様に直接役立つ仕事をしている。
昨日、兄が結婚した。相手は同じ仕事をしている女性で可愛らしい人。
真っ白なスーツに身を包んだ兄。すでに先月から二人の新居を構えて家を出ていたのだけど、その姿を見たら、ああ、本当に兄貴結婚するんだなという実感が沸いてきた。
堂々と振舞っていた兄。きっとお嫁さんを幸せにするだろう。つらい時でも先にたって歩いて、彼女を勇気づけるはず。スイミングスクールの帰り道に僕を励ましてくれたように。
一日経って家を見渡す。一緒に遊んだ居間、廊下、庭、玄関。もう相撲をとることもない。二人で新しい魔球を研究することも無いんだな。
去年姉が結婚して、今年兄が結婚した。嬉しい。けれど淋しい。
夕暮れに車を走らせた。