巻きタブ漂流[2]

幼馴染のたるちゃんは知的障害を持つ子だった。知的障害をチショウと略すと差別になるから中部国際空港セントレアなどと造語で呼んではいけない、たるちゃんはクリーニング屋で働き出していて、駅への道すがら僕に「おい、ビール飲ませろ」と冗談を言ってくる。僕は笑っている、けれどビールをおごる持ち合わせは無い。僕はたるちゃんほど、稼いではいない。忸怩忸怩。皿を洗うとは飴玉1つを買うためにある。さて、知識人とは何か?
イスラム報道、パレスティナを故郷に持つサイードの孤独、意識の本質には限界がある?さあ、若手が加入したね、酔っ払っているなら自転車に乗っても飲酒運転で罰せられるのだよ。へえーそうなんですかーふーん。バーボン、バーボン、パイナップルサワー、ニンニクのスナックにニンニクのカルパッチオ。そして新しいPCにはアラビア語を打ち込める機能がインストール可能で、海賊版のディスプレイドライバを使用してロビンソン・クルーソーの合間を縫う。フライデイの人生は祝福されたものだったのか、あの日甲板に飛び出した彼を襲った矢は、出会いさえなければ受けずに済んだものではなかっただろうか、ハックルベリー・フィンは「理性なんてくそったれ」と言ったのだ、確か。そして城でKが気にしていたのは造作も無いことだった。「今日、ママンが死んだ」という書き出し。授業は「旅」がテーマであり、空間的な旅から時間的な旅、そして魂の遍歴まで、文学の旅を語ろうと言うものだ。ウィルヘルム・マイスターが旅をすれば読者も旅をする。皿洗いの行き帰りの地下鉄で、打ち合わせのためのJRで、帰郷の特急で、僕も旅をした。
「君、皿洗いなんかやっていても意味が無いだろ、やめなよ」教授はおっしゃった。そうなのか?そうかもしれない。アラビア語を勉強しながらお金がもらえるなんて夢のような話がこの世にはある。あの襟巻きにはどんな意味があるのだろう?魔女狩りの勉強をしながら考えたけれど「ネギ」しか思いつかない。風邪引いてるのだろうか。いやいやあれはお洒落だ。おしゃれには「主張」というものがあるらしい、僕にはよくわからない。
こじれというものがある。Ω野郎と言う名前をΩ野郎と呼ばれたくないΩ野郎に呼べば、こじれというものが自分とΩ野郎の間に起こる。オメガのローキック、前田日明のリングスラストマッチの判定。長井満也川田利明と師弟タッグを組んでいた。タッグの解消はコミュニケーション不足から、これ定石。ひとつのほつれがおおきく拡がっていくパンストッキングのように、いやそんな例えは呆れられるだけだから、七夕の夜、「あう」という古語。たっくんは最初嫌いだったけれど、段々好きになった。くすっと笑われてしまったサウザンビッグマウンテン。コンビニへ行ったら24時間営業じゃなくて、蚊に刺されながら開店を待った。2枚しか食えなかったピザをたくさん食べて、ロックフェスの終わった苗場でフルーツを食べた。たるちゃんも僕もご馳走といえばスパゲッティナポリタンだったはずだ、ここではカルボナーラが主食。おやつに出ると聞いて飛び上がって喜んだホットケーキを、朝食べる。味噌汁の変わりにメープルシロップ。パパはパパスでお買い物。それはそれで、幸せだよ。思い通りに行かないことで喧嘩すればこじれる。黙っていればこじれる。泣かせればこじれる。金があれば楽しいだろう。なけりゃないで楽しい?そうであってほしい。ただ、皿を洗わないと金は入ってこない。日銭、貯金、ビールまたはブラックニッカ。イライラするぜ!イライラしている時黙って、おさまったらニコニコというのははた迷惑な話である。そして黄金パターン、「別れたい」「嫌だ」「別れよう」「絶対ヤダ」「じゃあがんばろう」「あれから考えたんだけど、やっぱり別れましょう」ブコウスキーの小説にあったあの名文句「人生はクソだ、クソクソクソ!」カサノバ・スネイクを聞きながら、天国を信じる人々の国へ。
8823と僕はナイーブに緊張しながら言葉を覚えていった。