尾車親方に内包される青木さやか

音楽タレントのCD発売というのは非常にリスクを伴う。原辰徳のシングルとか、藤波辰己の「マッチョドラゴン」とか。お笑いだと「猿岩石」なんていい例である。
だから最近は「くず」みたいに「本気ではない」もの、ほぼネタといっていい企画のものがリリースされる。表現方法は歌なんだけど、あくまで芸人としてのショーマンシップがメインである。こうした作品は「アーティスト」と呼ばれる人間の持つ負の部分、つまりある瞬間にはカッコいいけれど、距離を取ったり時代を経たりするとものすごく突込みどころ満載になってしまうあたりを前提に成立している。ハッチポッチステーショングッチ裕三を思い浮かべるとわかりやすい。グッチは(グッチは、ってのも変な主題だが)様々なソウルミュージシャンをパロディにしているが、あれはスパンコールのパンタロンやアフロヘアーなど「落ち着いて考えるとすごくへんなもの」が我々に認識されているからこそパロディなのである。ついてだから言うとケミストリーやゴズペラーズって、30年後にはダークダックスやボニージャックスの位置に立っているに違いない。だって4者はどれも「アカペラで織り成す素敵なシンフォニー」なのだから。
で、青木さやかである。
http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/dec/o20041224_30.htm
「パンク・アン・シエル」で歌手デビュー。本気だ。至って本気。「みんなで作り上げたものなので、とってもかっこいいものになっているはずです」とまで言ってるぞおい。参ったなあ。
いや別に歌を歌うなと言っているんじゃない。問題はその姿勢なんである。グッチはソウルミュージシャン達の「落ち着いて考えるとすごくへんなもの」を認識していると同時に、彼らに対し多大なリスペクトを抱いている。だからこそパロディでありながら妙な説得力を持っている。これに対し青木はパンクで直球勝負である。お笑い芸人としてではなく、あくまでパンク好きのキッズとしてバンドに飛び込んだのだ。だがどう考えたって世間一般にとって青木はお笑い芸人である。カッコよくパンク歌ったところで「ああ、意外に上手いね」がいいとこだ。「実はパンクができる青木さやか」という事実は「実は歌がうまい尾車親方」よりもありがたみが薄いと思う。
 今回のバンド結成には青木の女性としてのアピールを感じてしまう。なんていうか、青木さやかってすごく「女の子」であろうとしてるように見える。
女性お笑い芸人(バラドル含まず)の標準において「かわいい」「お茶目」「ぶりっ子」「爽やか」「純真」といった「女の子」の要素はマイナスである。だが青木の場合は常にそうした「女の子」を発信したがっているように思えてならない。例えば女子アナやアイドルを責める時の姿勢である。三浦靖子や森三中のいじり方は、明らかに自分たちが「女の子」という指標上で負けていることを前提にしている。一方青木のそれは「あんたたちなんかには負けてないわよ。本当は私のほうがかわいくてお茶目で、女の子らしいのよ!」という心理が感じられるのだ(本人はそう思っていないのかもしれないけど)。女性お笑い芸人としては明らかにプラスである負け役を引き受けず、敢えて頑なに女の子であろうとする青木。怖いな。女性タレントへの憎悪さえ感じるぞ。
と思ったら、そういや青木は元アナウンサーだった。どうやら青木はまだ女子アナというペルソナの延長線上を歩いているようである。コントにおける芸風も、女子アナ(芸人じゃないタレント)がやってると考えれば妙にしっくり来る。再び「ああ、尾車親方って歌も結構上手なのね」という、あの感覚である。パンクをやっても尾車親方、コントをやっても尾車親方。青木さやかのオリジナリティーや如何?