ようこそ!

今まで沢山の人が逝くのを見てきた。
人が死ぬことを知ったのは6歳の時。父方の祖母がある朝目を覚まさなかった。前の日私を抱きながら「明日は皆で回転寿司を食べに行こうね」と話をしていたのだけれど、最後に祖母は約束を破った。北枕になった祖母の手は驚くほど冷たかった。
母方の祖父母は10年間寝たきりの生活を経て亡くなった。気丈だった二人が不随となり、生きる喜びが無いといって泣くのを見るのは辛かった。けれどもやがて泣くことも無くなり、子供のようになっていく姿を見るのはもっと辛かった。それぞれが亡くなった時、悲しさと同時に老いた肉体から開放されることへの安堵「良かったね、これでまた自由に歩いてご飯食べて農作業できるね」という気持ち、それから長い間在宅介護を続けた叔母への感謝がこみ上げた。
父方の伯母の訃報は東京で働いていた頃のこと。新幹線で鹿児島まで行った。まだ若かったから伯母より年上の方がたくさんいて、その人たちが嗚咽を上げている姿が悲しかった。
長年患っていて死期が近いことは皆知っていた。だから前年に家へ来て父と姉弟水入らずをしたのだろう。あの時「喫茶店代に使ってね」と洒落た言葉とともに貰った1万円を、当時穀潰し生活をしていた私は取り留めの無いことに使ってしまった。
火葬場の外で照りつける太陽と青く青く映る空に、ここは何て遠いところなのだろう、愛する人と離れて暮らすというのは悲しいことなのだと感じた。
中学時代の恩師の死は2年前。同級生から何通もメールが来ているなあと思ったら全てが訃報だった。体操の元国体選手で、逆立ちができなかった私に筆ペン書きの指南書を作って渡してくれた。表紙には「努力は天才に勝る」と。
皆が成人した際に乾杯するのを楽しみにしていたらしい。けれども私たちが18の時に倒れ、運動能力と言葉の大半を失くした。成人式後の飲み会に来ることは来た、はしゃいでお酌をしていた、けれども話らしい話はできなかった。
ウインドブレーカーの下でパンパンに盛り上がっていたはずの体躯、棺の中の恩師は驚くほど小さかった。
母方の祖父母、伯母の時の3回弔辞を読んだ。祖父母の時は自分で書いたもの、伯母の時は従妹が書いたが「悲しくて読めない」というので代読で。
2度と読みたくない。あんなもの。
今年もいくつか悲しい話を耳にした。なんと言えばいいのか、どう反応すればいいのかよくわからない。
12月25日、家族が増えた。
里帰りしていた姉が早朝陣痛を起こし、病院へ車で送る。期待と苦痛が入り混じった表情の姉、安全運転をこころがけようとするけれどあわわあわわな私、落ち着いている母。
夕方仕事中に吉報届く。姪だという。古風な姉は性別を聞かなかったのだ。数時間後写真も届く。退社後奮発してコンビニエンでシャンペンとビエネッタを買い母に出産の様子を聞いたり義兄に連絡したりしながら乾杯。口元は笑顔、目には泪。
今日病院へ会いに行った。白い襦袢にお嬢さんが包まっていた。
こんにちは、はじめまして。おじさんだよ。初対面だからさっきお風呂に入ってきたよ。石鹸も新しいのを使ったよ。髭も剃ったんだけどそわそわしたせいでちょっと顎のところ切っちゃったんだ。
首を支えながら抱いてみる。お嬢さんは驚くほど小さくて軽くて弱くって、でも生きてる、あったかい。腕の中に生まれたての命がいることに、私はただただおろおろするばかり。
産声が入っているからと姉がレコーダーを渡してくれた。スイッチを入れると静寂の後ピギーピギーという鳴き声、看護士さん・助産士さんの歓喜とねぎらいの声。
涙があふれ出た。嗚咽した。

父方の祖母が亡くなったのはもう20年以上も前のことだけれど、抱かれた時の温もりは今でも背中で覚えている。今腕の中で目が開くか開かないかの新しい命も不思議なくらいあったかい。記憶に残る祖母の温もりをこの子にも伝えられたらなあと思う。
窓の外に目をやると山々が雪化粧して綺麗だった。世の中を良くしたい、なんてことを思った。
 
 
ようこそ!