今は昔、巻きタブがサーリフだった頃

空調の効いたオフィスの中でも空の青に秋が感じられるようになったせいか時の流れという言葉が心に浮かび、ふと昔のことを思い出した。
5年前の今ぐらいの季節、私はシリアアラブ共和国のアレッポ市にあるグラナダ・ホテルで激しい下痢と腹痛に苦しみ「おかあさん、おかあさん」と言って泣いていた。到着してすぐに露店で買い食いしたサンドイッチが原因。これから半年この国で暮らしていかなくちゃならないのに最初からこの調子、「先が思いやられる」と思いたいところだが腹が痛すぎて「おかあさん」しか出てこなかった。
中東が怖かった。狂信者の住む好戦的な世界だと思っていた。それが高校の世界史で中近東の歴史に触れた時、実は怖くないのかもしれない、好きで戦争しているわけではなさそうだと感じ、実際行って見たいと思うようになった。
大学で日本人ムスリムの先生が主催するゼミに入った。先生はアラブ・イスラーム地域を知る為の肝となるアラビヤ語・イスラーム法学基礎の両方に精通している上、何よりも自分のこととしてイスラームを語ることが出来る方だった。先生の話から、イスラームの教えは怖いものではなく意外にも日本人の道徳観に近いこと、そして好きで戦争しているわけではなく、せざるを得ない状況にあることを確信した。行ってみたいと思い始めた。
19の時初めてシリアの地を踏んだ。世界遺産でもある5千年都市アレッポで、物腰柔らかく礼儀正しく歓待の精神に溢れ、心の安定を持つ人たちに会った。なんと豊かな人たちなのだろう。もっと詳しくこの人たちを知りたいと思った。
彼の地で私は「サーリフ」と呼ばれるようになった。真っ直ぐな人・正直な人という意味で、ちょうど私の下の名前が意味するところと同じ。
帰国後彼らの言語・文化・思想などの勉強を進め、あの豊かさにはイスラームの教えが根底にあることを確信した。自分たち日本人が学ぶべきことは多いと感じるようになった。彼らの考えていること、思っていることをもっといろんな人に知ってほしい。それを仕事にしたい。
ここで二つの壁にぶつかった。一つは世界情勢。研究者を志した矢先、所謂「同時多発テロ」が起こった。やっぱりアラブはテロリスト、というレッテルが世界中に溢れた。アフガニスタンイラクに爆弾の雨が降り、テレビの前で途方にくれるしかなかった。
もう一つの壁、それは私がムスリムでないことだった。もう少し具体的に言うと「この世界は唯一神創造したものであり、人は最後の審判で裁かれる」という認識を持っていないということ。一神教にとって基本中の基本であるこの考えを受け容れなければ、イスラームのことを自分のこととして語ることはできない。いくら彼らの教えが素晴らしいとのたまったとしても「じゃあなんで自分はその教えを受け容れないの?」と訊かれたらぐうの音も出ない。
私を「アヒー(兄弟)」と呼んでくれたシリア人の友人がいた。互いに日本語とアラビヤ語を教えあい、時にエロ話をし、時に夢のような未来を語り合った仲。そんな彼がある日悲しそうな顔で呟いた
「サーリフ、君はわかってないよ・・・」
心に突き刺さった。イスラームの教えを学び、言語を学び、彼らのことを語れるような気がしていたけれど、結局私には「あの人たちは・・・」という切り口でしか語れていないのか・・・。
ムスリムになろうかと考えた時期もあった。ラマダーン月に断食し、礼拝の方法を教えてもらったこともある。けれども最終的には受け容れることができなかった。唯一神の存在について理屈ではわかっても魂に届かなかった。魂にしっくりきたのは仏教的な虚無、「今・ここ」という感覚。だから祖父の死に際し、合掌はできても「神に感謝します」とは言えなかった。
それで私はムスリムになろうと思わなくなった。
東洋思想家・井筒俊彦氏が著書『意識と本質』で、わかることは『わける』ことだと書かれていたが、まさしく私はムスリムと自分を「わける」ことで「わかった」気になった、「わかった」ことにしたのだ。けれども友人にとって私の行為は「わかってない」ことになる。
彼の言っていることは正しい。しかし私には「分ける」以上はできない。

長年の穀潰し学生生活で生活に困窮した私はこの問題を解決しないままに就職し、以降イスラームの教えに触れることはほぼ皆無となった。正直に言えば、逃げた。わかろうとする努力を拒否したのである。

今、もう誰も僕のことをサーリフとは呼ばない。5年前の腹の痛みは消え去ったけれど、あの時の言葉は未だに心に突き刺さっている。