松坂屋世代

伊勢佐木長者町松坂屋が業績不振を理由に閉店するという。
「ゆず」がデビュー前に軒下で歌っていたことで有名な店。ファンであれば感傷的になるのも当然だろう。
もっとも彼らに対して思い入れはあまりない、ちょっと恨んでいる。なぜなら『ヅル子』さんに与えた課題曲が彼女自身が好きだといって選んだ「ゆず」だったから。
以前何度か振られているヅル子さんが突然「ウクレレやってみたい」と言って来たのが今年の初め。おうおうおう教えたろうと簡単に手ほどきし、次回は課題曲一緒にやりましょう、ついては拙宅のウクレレ貸しましょう。ではまた来月ねーと約束した後、こちとら指導者、きちんと教えるべく弾けるようにさんざん練習した。
だのにヅル子さんときたらウクレレ借りてったっきり一切連絡ナシノツブテ。先日堪忍しきれず
 「拝啓、わたしのウクレレは元気でしょうか?」
とメエルしたところ
 「ウクレレちゃんは元気です。でも私が忙しくって練習できてません、かしこ」
と帰ってきた。
なにがかしこじゃ、このスットコドッコイ!なまはげ宇宙人め!泣。
というわけでゆずには良い思い出がないどころか、彼らの歌を聴くとちょっとムッとしてしまうくらいなのである。いや、いい歌多いんだけどさ、「さよならバス」とか。そもそもヅル子さんの件は本人たち悪くないし。
もとい、松坂屋
あれは平成9年のこと。研究もサークルも友人関係も全部嫌になった私は学校関係の人たちとのつながりから逐電し、アルバイトに精を出すことにした。就いた先が関内の横浜カレーミュージアム。確か1月末、ミュージアム開館2週間前くらいに出展店舗の一つだった「エチオピア」で採用され、働くことになった。
2,3日リハーサルを経た後でいよいよ明日が開館という日、「明日からがんばろう会」と銘打って、挨拶しながら飯を立ち食いする会が催され、会場が松坂屋の最上階だった。
なぜ松坂屋か?理由は簡単、カレーミュージアム松坂屋は伊勢崎モールで向かい合っていたから。
瓶ビールや瓶ウーロン茶、から揚げ、赤ウィンナー、肉団子、馬鈴薯揚げなどがレタスの上に盛り合わせてあるオードブルなどを4-50代のおばちゃん店員が運んできた。当時貧乏かつオノボリさんだった私はデパートというところにあまり入ったことが無く、一体どんなお洒落なところなんだろうかと胸を膨らませていたのだが、目の前の料理、おばちゃんを見る限り郷里のイート・ヨカードと大差ない様子である。
拍子抜けしながら上司のエチオピア店長に思った通りを発してみた。
「なんか、しょ、しょぼいっすね」
「・・・松坂屋だからね」
オノボリ巻きタブ、平成9年なってはじめて「デパートにはランクがある」と知った。一つ、大人になった。
その後エチオピアでは4ヶ月働いた。13時間ぶっ通しで皿を洗い続け何故か脳内にTMGEの「ブライアン・ダウン」が流れ続ける事態に陥ったり生き返りの市営地下鉄で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読破したり仕事後長者町に無言で立っている夜のお姉さま方にビビッたり稼いだお金でTMGEとかジッタリンジンとかDR.FEELGOODとかROLLING STONESとかJoe Strummer買ったり一緒に働いてた同い年のSさんに「かわいい子だねえ」と弟扱いされてちょっとムッとし(つつも照れていた)り毎日カレー食ったり朝までカラオケして夜明けに吉野家で牛丼食べたり、楽しかった。
セミプロのジャズマン、元芸能人、学生、調理師崩れ、帰国子女、いろんな人生の人と時間と苦労を共有した。色んな話をするうちにちゃんと学校も行こうという気分になった。4月からは昼に学校、夜皿洗いで、たまったお金で本とCDを買う。そんないかにも学生らしい生活を送った。
ところが5月のはじめ、目をかけてもらっていた助教授からバイトを辞めるように言われた。曰く、皿洗いなんかしてちゃいけない、今の収入と同じくらいを出すから授業の手伝いをしてくれ、と。「皿洗いなんか」という言葉にちょっと腹が立ったけれど、勉強しながらお金もらえるなら一石二鳥、エチオピアに別れを告げた。
辞めてからも何度かカレーミュージアムに足を運んでいる。行き帰り、隣の有燐堂には繁く立ち寄ったけれど、向かいの松坂屋には終ぞ入らなかった。後にも先にも松坂屋に入ったのは「明日からがんばろう会」の一回だけ。
中にどんな店があったのかとんとわからないが、伊勢崎モール沿いの赤い軒だけはぼんやりと覚えている。仕事に行くとき、仕事から帰るとき、ミュージアムを出ると古びた赤い軒があった。軒が、なくなるんだなあ。そういえばカレーミュージアムも去年閉館したんだっけ。
働かせてもらった「エチオピア」は神田に本店がある。今度御茶ノ水ウクレレ見た帰りにでも寄っていこう。