日本で一番の贅沢

今日は脱穀の日。2週間前にハゼ掛けした稲を籾にする日だ。

春に田植えした苗は夏に青く育つ。穂がついたところで水を抜くと稲は次第に美しく枯れ、藁独特の黄金色を放つ。そうしたら稲刈りだ。出荷する米は効率と採算性を考えてコンバインで一気に籾にし、乾燥機に掛けてしまう。便利だけれど、乾燥機に掛けた米の味は、秋の柔らかな日差しで乾かされた米に到底及ばない。米農家はそれを知っている。だから自分たちの食べる米は面倒でも刈り取った稲を束ね、ハゼに掛けて乾燥させる。
稲穂が程よく乾くまでには稲刈りから約2週間かかる。雨が降らないだろうか、霧がでないだろうかと心配しながら農家は待つ。今年は雨も霧も2週間が終わる頃にやってきて稲穂を湿らせた。我が家のハゼも濡れ、脱穀の日を一日遅らせた。

ハゼから外した稲を脱穀機に掛けていく。脱穀機はディーゼルの音でブンブン唸りながら、稲を藁と籾に分けていく。米袋に稲穂が入り、地面に藁が落ちる、飛び散った藁屑が風に舞う。藁は束ねられ、野焼きの燃料や縄や肥料になる。
米袋いっぱいに詰まった籾を軽トラで家まで。そのうちの一袋をコイン精米へ持っていく。300円でできるセルフ精米機の前には農家たちが長蛇の列。みんな、贅沢を知っている人たち。
夜、精米した米を炊く。新米は水分が多いから水は少なめ。炊き上がったらしっかりと蒸らすこと15分。

真っ白な湯気が釜から沸きあがる。今年のお米。
春に植え、夏に育ち、秋に刈り取り、やっと食卓に上がる。稲穂の成長と色の移ろいに四季を感じ、迎えた今の季節。やっと育ったお米を炊いた一杯の白飯。断言できる、こんなに贅沢な食べ物は他に無い。
都市に住んでいた頃、街には何でもあるなあと感じていた。かっこいい服も変えたし、人情溢れる商店街もあった。本もCDも落語もアイスクリームもその日の気分で選ぶことができた。農薬の害が心配なら有機野菜を選べたし、化学物質の浸透が怖いなら天然石鹸を買うこともできた。田舎は違う、服は品揃えが少ないし、駅前商店街はショッピングモールに押しつぶされて人情どころか人がいない。町田康の置いてない本屋、バースデイの置いてないレコード屋、年に一回しか公演の無い寄席、20年前と変わらずまずいアイスキャンデー。農薬まみれのバナナと莫迦高い色つき石鹸。街にはなんでもある、田舎には何も無い、そう思っていた。
でも今日気づいた。田舎では当たり前のようにある「一杯の白飯」が、都市には無い。都市でも新米を買ったり知人から送ってもらったりすることはできるだろうけど、育て、刈り取り、四季を感じ、最後に味わうと言うこの感動は得られない。そうか、田舎では当たり前だけれど、この「一杯の白飯」は最高に贅沢な食べ物なのだ。
うわははは、羨ましいだろ。ここには何も無い、でも白飯があるぞ。嬉しくなった私は、白飯の上に牛肉をのっけて食べた。
最高にうまかった。