思想書片手に街へ出よう!

26日のコメントでなっちゃんさんからもらったコメントについて考えてみた。曰く、
そういう人間としていつも生きていたいなーって思います
普段から「人間らしく」とか「〜な人間として」という考え方をしたことがあまり無いので、へえーこんな風に考えて生きてる人がいるんだなあとちょっと新鮮な気持ちになった。毎日色んな場面で「他人を助けるのは私にとって義務だ」なんて考えるのだろうか。そりゃ、間違いなくいいことだ。
ところで私は考えた。誰かが「人間らしく生きなくちゃ」と心がけて生きている間、私は何を考えているのだろう。そこで今朝菜園でネギの植替えをした際、自分自身の一日の思考内容についてレビューを試みた。
驚愕した。一日のほとんどが「エロ」で埋め尽くされていたのだ。
24時間のうち、起きているのは18時間前後。18時間で様々な日々の活動を営んでいるわけだが、ほとんどの活動で共通していたのが「合間にエロい事を考える」点だったのだ。起床後の寝床、早朝マラソンの路上、読書中、運転中、職場、風呂、インターネット中、就寝前の寝床、エトセトラ。もちろん朝の寝床では「起きなきゃ」とか「今日は仕事でこれ終わらせなきゃ」とか考えるし、運転中は100メートルごとに後方を確認する。仕事でメールを打つ時は伝えたい内容、相手をきちんと整理し、必要最小限の言葉で送るよう最新の注意を払う。だがそれ以外の何も考えることが無い時間――例えば5時に起きて朝食まで時間がたっぷりあるとき、読書で一休みしたとき、仕事がひと段落ついた後、あるいは休日何もすることがないときなど――何かの目的の為に脳を回転させる必要がなくなったとき、私はほぼ毎回エロい事を考えているのである。どう少なく見積もっても1日5時間は考えている計算になる、エッヘン。
これではいかんと思い、フサイニー『イスラーム神学50の教理』、ハイデガー存在と時間』、道元正法眼蔵』などを肩掛鞄に詰め込んで電車へ乗り込んだ。時間と空間を超越した存在とは世界を秩序付け人間に生き方を示す絶対者なのか、それとも単に真っ暗な虚無か。あるいはどちらも正しくなく、ただひたすら人は「今、ここ」で彷徨うのか。存在の根本にかかわるこの大いなる疑問について自分なりの解を見出せれば、日々の生き方も変わるはずである。よし、徹底的に考えて答えを見つけよう。生き方を変えよう。アルカイックに細めた目を足元に向けながら、私は並々ならぬ決心を胸中に秘めたのである。
ところが電車を降り、図書館へ向かおうとしたところ再度驚愕した。目の前にいた女性が驚くほど美人だったのだ。
しばし茫然、いかんいかん、私は今日生き方を変えるのだ。世界の存在に解をみつけるのだ。我に返った私は女性から目を逸らし別の方角を向いた。別の女性、これまた驚愕の美人。ひーダメだダメだ。また別の方向、また美人、驚愕。別、美人、驚、別、美人、驚。周りを見回すと美人だらけである。なんということだ、私が日々の生活でエロいこと考えている間、世の女性たちは美しくなる努力をしていたのだ。結果女性たちは美しくなって街を華やかにし、私は思想書片手に空回りしている次第である。

落胆した私は思考を諦め、イタリーレストランでボサノヴァを聴いてビールを飲んだ。ひたすら会社の文句を言う男性が近くにいて、ギターの音が遮られた。さっき見た美人の一人がぬらりひょんみたいな男と懇ろにしゃべっていた。生演奏にうっとりする美人、それを見てしめしめと含み笑いをするぬらりひょん
所在無いのでとりあえずまたエロいことを考えた。