形容詞

安部首相は就任前、「美しい国、日本」を標榜し世論の支持を得た。同名の本も出版し話題を集め、最終的に民意に推される形で内閣を発足させた。多くの人が「美しい国」という理想に魅せられたのである。
ところがである、首相になってしばらくするとこの「美しい」という形容詞が鼻に付くようになってきた。所信表明、記者会見、インタビュー、「美しい」という言葉が出るたびに「また言ってるよ安部さん」と課長の口癖を揶揄する一般社員みたいな口調でつぶやきたくなる。
この「美しい」という言葉の示す意味範囲は結構広いだろう。だって本が一冊書けるくらい意味を含んだ言葉だから。本を読んでないから「美しい」という言い方を批判することはできない。けれどこの言葉を聞いたときの「厭なかんじ」の正体は、「美しい」の意味範囲を知らなくてもなんとなく思い当たる点がある。
それは首相が「美しい国づくり」という言い回しを多用している点である。
日本語というのは修飾・非修飾の関係性を示す冠詞・語順ルールが他の言語よりも少ない。だからどの形容詞がどの名詞を形容しているのかがわかりにくいことがある。「美しい国づくり」の「美しい」はまさにそのような形容詞なのだ。「美しい国、日本」というコンテクストを知っていれば「美しい」が指しているのが「国」ということがわかる。しかしこのコンテクスト無しで「美しい国づくり」という言葉を見るとどうだろう。「美しい」は「国」だけでなく、「国づくり」乃至は「(国を)つくる(行為)」にも修飾されているように理解できる。
国自体が美しいことは皆いいなあと思っている。けれど為政者の政が美しくある必要は皆感じていない。本当は古代中国王朝の伝説みたいに美しい方がいいだろうけど、TVニュースでは政治は「汚職と談合とドンブリ会計」でしか話題にあがらないので(実際政治家の方々がどのくらい努力されているかは別として)「美しい政治」は私たちの頭の中にインプリンティングされていない。結果「美しい国」という言葉にはシンパシーを感じるが、為政者が「美しい国づくり」という表現には違和感を感じるのではないだろうか。
安部首相、中東和平、がんばってほしい。