黒の山唄

休日の朝にまたいつもの夢である。私は卒業するためにレポートを仕上げなければならない。けれど闇組織から派遣された殺人嗜好症の殺し屋に追われなかなかレポートを提出できない。気がつけばタイムリミットは目前、なのに殺し屋がすぐそこにいる。来るな殺さないでくれ、これからレポートを書いて提出しなくちゃいけないんだ、そうしないと卒業できなくなって会社に行けなくなっちまうんだ。レポート出さなくちゃ、出して会社に行かなくちゃ。頼む、頼む・・わああ!
そこで眼が覚め今の自分が誰なのかを確認する。ああそうだ俺はもう卒業したんだ、もうレポートは書かなくてもいいんだった。もう会社に行っていいんだ・・・ああ今日はまだ日曜日だ、休みだ、よかった・・。
休みの日になるといつもこの夢だ。毎回私は殺されかけ、そしてレポートに追われている。こんな夢を見てしまう理由はわかっている。学生のとき、たった数分論文の提出が遅れたために留年を経験した。就職を目前に控えていたときで目の前が真っ暗になった。だから今でも論文とか課題とかレポートとか研究とかいう言葉を聞くと憂鬱になる。できるだけ遠ざけておきたい、逃げたい。
昨日体調を崩してひどい腹痛に悩まされた。エレキウクレレのスチール弦が切れた、アンプの調子もおかしい。そしてこの夢。情けない気分だ。
生きている心地がほしい。そうだ、今日は山へ行くんだった。来週の登山へ向けて滝までの道の状態を下見するんだった。よし、すぐ行こう。5分後、ドミノピザのジャンパーを着て軍手をはめ、オンボロ軽四駆のエンジンをスタートした。
山は雪雲に覆われているようだ、盆地には雪など全く無いし、晴れ間すらのぞいているというのに。山道を入って1キロも行かないうちに道に雪が見えるようになった。滝は近いとはいえ結構上流にある。たどり着けるか?

わからない、けれどとにかく進もう。4WDにシフト、タイヤをわざと雪で滑らせてスリップの感覚を掴む。
雪はだんだん深くなり運転も慎重にならざるをえなくなる。そして道も次第に急勾配となり、低いギヤでないと進むことはできない。
目の前に巨大なコンクリートの壁が見えた。

ダムだ、ほぼ中間地点。
いったん車から出て雪の感触を確かめる。アイスバーンの上に今朝から降っているらしい新雪が5センチほど積もっている。これならスリップで制御不能になることはなさいはずだ。そう考えた。実際根拠は全く無かったが。
最大の難所、ダム湖を崖下に見ながらの狭い道。

ダム湖への落下を防ぐためにガードレールが設置されているが、そのガードレールぎりぎりまで雪が積もっている。ここで運転をミスったらボロ軽四駆もろとも水の中へまっさかさまだ。慎重にすこしずつアクセルを踏む。ハンドルを握る手に汗がにじむ。息が詰まって苦しい・・・。
抜けた。通り抜けた。失敗はなかった。もう雪の深さなど気にしない。さらに奥へ奥へと進む。

駐車場にたどり着いた。ここから先は車が入れない。防寒具を装着して歩きはじめた。雪で明るいとはいえ山林である、暗い。夏は小鳥のさえずりが心地よいこの道だが、今はただただ沢の音。今年は熊の出没が多いと聞いている。キーホルダーについた鈴を鳴らしながらできるだけ音をたてて一歩一歩。どうやら数時間前にも誰かが上ったらしく足跡がある。ん、これ、人の足跡だよね・・・。

日ごろの運動不足と熊への警戒心から一気に息が上がる。寒いのに汗が流れ出す。もう少しだ、もう少しだ、歩くんだ。今は自分の足しか頼れないのだから・・・
ついた。

初めて見る真冬の滝。残念ながら暖冬のせいで凍っていなかった。けれどとても美しく、絶え間ない水の音が不思議なほど静かだ。ぜいぜい息をきらしながらも、ここまでたどり着けた達成感、そしてこの景色を独り占めしているというひそかな喜びに痺れた。パンパンと手を叩き、礼拝。
さあ、帰ろう。温泉でも浸かっていくか。
悪夢の後で贅沢な休日