言わない、言えない、わからない、わけない。

プロレスファンは屈折している。
勝敗の決まっているショーを、勝敗が決まっていると知っていながら「どっちが勝つんだろう」と考えて観ている。勝敗が決まっていると知っていながら、戦いのプロセスやレスラーの人生に共感し、感動し、時に激怒する。マスクマンの正体は知っているけれど、マスク剥ぎをする悪玉にブーイングする。善玉と悪玉という単純な構図のショーに一喜一憂しつつも、リングの外では善玉レスラーが天狗になっていて、悪玉レスラーが後輩思いの善人であることを知っている。記者会見での乱闘がシナリオ通りであることも知っている。それでもプロレスファンはプロレスが好きで、プロレスにドキドキするのである。一般の人から白い眼で見られていることも知っているし、「プロレスが好きです」と宣言することがどんなに恥ずかしいかも知っている。でも好きなんである。屈折していないといえるだろうか。って、自分のこと言ってるんだけどさ。
いつの日からか、世の中のいろんな出来事を「プロレス的」に捉えてしまうようになった。
たとえばブッシュ大統領ホワイトハウスという「リング」の上では大ヒーローだけれど、ひとたびその「リング」を降りると天狗も天狗である。典型的な善玉レスラー。ではリングの上のブッシュをドキドキして観ているかというと、否である。彼の描くヒロイズムはあまりにもベタ過ぎて感情移入ができない。観衆の期待がわからずにベタなヒーローを見せ、一部の「わかってない」人から受けた歓声に手ごたえを感じ、天狗になる。これでは良いレスラーとはいえない。
たとえばボクシングの亀田親子。悪役に徹したらそこそこいい線だと思う。けれど時々「素」を見せてしまうので今一歩である。「親子愛」を強調してしまったり、相手の挑発に本気で怒ってしまったり。「うちの親子が一番、そのほかはヘボ」という闇雲な選民思想の提唱、ランダエタの差し出したオムツを履いてのリングイン。これくらいのショーマンシップは見せて欲しかった。
たとえばサッカー。タックルなどで選手が倒れたとき、本当に押し倒されたのかわざとこけたのかすぐにわかる。わざとこけた選手は、馬場さんの16文キックや猪木の延髄斬りを喰らったレスラーと同じような倒れ方をする。
こういうものの見方をしていると、だんだんとネガティブになってくる。国連は「国際平和」を唱えているけど米国政府の言いなりじゃあないか。亀田兄弟の相手はガードすらできない東南アジア系ばかりじゃないか。サッカーで世界一になるにはウマくこける技術と相手を逆上させる挑発行為をマスターしなくちゃならないんじゃないか。国際政治やスポーツだけではない。男女平等、機会均等、ボランティア、みんな綺麗な理想を言うけれど、その実エゴと力関係がはびこる見せ掛けだけじゃないか。次第次第に世の中の出来事全てをそんな風に見るようになって来る。
翻って、プロレスの世界ではそうはいかない。ヘボいヒロイズムしか見せられない善玉レスラーはメーンイベンダーにはなれない。逆に相手が極端に弱い不公平な試合も、えこひいきなレフェリングも、許容される。さらに言えば挑発どころか反則行為も5秒までならOKである。なぜなら最終的な勝負の結果はそれほど重要ではないから。スリーカウントを取ったか取られたかではなく、見ている人の心が動いたかどうか、こちらの方が重要なのである。そしてこの「良いものをみせよう」というレスラーの行動に、屈折したファンたちは真剣勝負を見出す。正々堂々が建前の世界に顕然する嘘より、嘘を前提にした世界に垣間見える真実の方が、価値あるもののように思える。
だから単純に「善人」と「悪人」を真っ二つにすることは無意味だと思う。悪玉レスラーが善人で善玉レスラーが天狗になっていることもある。仏教に、自分には優しかった母親が家の外では悪人で、死後餓鬼界に堕ちたという話もある。時や場合や見方を変えると意味なんて変わってしまうものなのだ。
敷衍すると、物事を1か0かで捉えるというのもナンセンスなのである。確かに「究極は1か0かだろう」という人もいるかもしれない。だけど仮にそうだとしても、人間を1か0かで簡単にわけることなどできやしないのである。悪いこともするしいいこともする。ロックンロールを作った国は好きだけれど原爆を落とす国は嫌い。とてもいい人たちだけれど信じているものが違う。云々。
「なんでもっと早く言ってくれないの!」
こう言われるといつも思う。言わなかったわけじゃあない、言えなかったんだ。理由はそう簡単に説明できるものじゃあない。10秒で説明できる事情ならとっくに話しているし、結果の原因は必ずしも一つじゃあない。そりゃ、複雑雑多な原因を理路整然と説明できるのが大人なのかもしれないけれど、どうしたって説明のプロセスには単純化や形式化が必要で、そんなことをしたら伝えるべきことがぼやけてしまうじゃないか。だからちょっとちょっと、まってくれよちょっとちょっと、「うーうー」。相手にはこの「うーうー」だけが伝わる。
「何がうーうーだよ。なに考えてるかわかんない。」
ただ単に「うーうー」いったわけじゃない。結果の原因は必ずしも一つじゃないのだ。この「うーうー」にはいろんな背景が詰まっているのだ。その背景全てをわかれとは言わない。でも背景があることだけは「うーうー」だけでわかってくれないか。って、そりゃ無理か。わかってくれる人は少ない。その分わかってくれる人に会えることはとってもうれしい。
こんな屈折した人たちの言葉にならない「うーうー」を、見事に社会を捉えるパースペクティヴへと昇華させた作品。