曇れるベイルート

「語りえないことについては、沈黙しなければならない」とはルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの言。分節できない周囲に嘔吐を覚えたのはソ・ソ・ソクラテスサルトルか♪のサルトル、もとい実存主義者のサルトルである。とかく人は言葉で説明できないものに拒絶反応を示す生き物。そしてその「説明できない世界」は蒸留水のようにピュアで、かつ汚れやすい。
ある別の「物質」すなわち説明が加わった瞬間、もはや蒸留水ではいられず、「物質」を溶質としてどんどん受け容れ「溶液」になる。「物質」が食塩であれば是れ食塩水、砂糖であれば即ち砂糖水、溶液の大半を占めているのは溶媒すなわち水の筈だ。だが人は大抵「塩辛い水」「甘い水」と、物質に目が行きがちである。水ではなく炎だったら「塩辛い」も「甘い」も知覚できはしない。水であることが前提である筈なのに、塩辛さや甘さに感覚を向けてしまう。
「民族」「宗教」「紛争」「戦争」、便利かつ危険な溶質である。沈黙あるいは嘔吐するしかなかった「ベイルート」という名前の場所を知覚するのに非常に役に立っている。「民族同士の争いは根が深いから」「宗教による紛争は終わらないから」という言い方をすれば、立派な水溶液だ。溶質でタグづけしてしまえば、その先を見つめなくて済む。「宗教問題は難しいから、当事者でないとわからないよなあ」と言えば、ベイルートという対象を自分なりに認識し、分節し、かつ沈黙できるのだ。吐かずに沈黙できる装置。だが、本質は水にある。誰かがどこかを指差した時、愚か者は指の先を見ている。
問題はもっともっとシンプルだ。へんてこなオブラートで包んでも仕方が無い。未だ見ぬ地ベイルート。その美しい姿を、見たい。