TV的価値

いやーアルゼンチン強かった。セルビア・モンテネグロだって決して弱いチームじゃないのに、6点もとっちゃうんだもの。南米らしい個人技を駆使した試合展開も素晴らしかった。マラドーナもダイエットして元気そうだったし(90年以前のサッカー知らない人にとっては「熱狂的なサッカー好きのおじさん」に映ったと思う。まあ、間違ってはいないわけですが)。
さて、問題は明石家さんまである。
Jリーグ発足で日本中にサッカーブームが起きた時、同時に湧き上がったのが「実はサッカーファンだったタレント群」であった。それまで何食わぬ顔で(別に何食わぬ顔を装っていたわけではないが)バラエティや24時間テレビに出ていた人が「いやー実は釜本のファンで」「奥寺の動向は昔からチェックしていて」なんて言い出した時期が、あった。それが本当だったかどうかは別として、胡散臭さが蔓延していたことは確か。Jリーグの一時的な下火と同時に彼らも淘汰されていったのだが、その中で最期まで「サッカーファン」のタグを身につけたまま残っているのが明石家さんまである。
多分、本当にサッカーが好きである。結構いろいろ知っているし、選手へのリスペクトも持っている様子。サッカーの試合でゲスト出演してても楽しそうである。試合中やたらと喋るのは、本当にサッカーが好きだからなんだとも思う。それはいい。「彼の奥さん美人で」とか「僕が試合前に挨拶したから活躍している」とか、選手たちとのつながりを自慢するのも、気持ちはよくわかる。だけどそれでいて、「この試合展開、TV的に価値がある」という発言、これはどうなのだろう。
いや、言わんとしていることはわかる。この試合は確かにTV的に価値があった。アルゼンチンの強さ、メッシの鮮烈なデビュー、それを見て狂喜乱舞するマラドーナ村上龍あたりが「これはひとつの完成されたドラマである」とか書きそうな様相だった。
だけどそれを試合のゲストが言うことの価値はどこにあるのか?現場にいて、しかもサッカー好きなゲストが、「この展開はTV番組として視聴者受けする」という、いわばTVの裏側についての解説を、サッカー好きの視聴者へ言ってあげることにどのような価値があるのか?さらに言えば上記の「彼の奥さん美人で」とか「僕が試合前に挨拶したから活躍している」という発言は、大抵目の覚めるようなスーパープレイの後に発せられている。この発言タイミング。「TV的」には「良い場面の後でその場面を賞賛しない行為」もっとわかりやすく言えば「そんなこたきいてねぇよ」な類のものばかりである。さんまが選手と知り合いであるということ(大抵はTVの企画で会っただけだけど)は、ファンタジスタのプレーに驚くという行為に対し、何のありがたみも無いのではないか。こんな発言をしている人に「TV的に価値が」と第3者的立場で言われてもねえ。ただ、もう少し問題は深い。
「TV的に価値」と聞いて、大体の人が意味を了解する時代である。もはやプロレスの流血でショック死する時代ではないし、叶姉妹が本当は貧乏だったとしても誰も文句は言わない。TVの向こう側にはTVの製作者がいて、編集機能があるというのも周知の事実だからである。だから「TVの裏側はこうなっている」と語ることに大きな価値はもはや無い。
人によっては「番組は作られたものである」と知りつつも、そういったことは「なかったこと」にして純粋に展開を、あるいは出演者の本気っぷりを楽しむようになってきているし、一種の「TVを楽しむための正しい姿勢」になっていると思う。ドラマやプロレス、それから「藤岡弘探検シリーズ」を想定するとわかりやすいだろう(例が貧相で申し訳ない)。
そういう見方を人にとって、時々バラエティで目にする「ごめん、このシーン後でカットしといて」というネタは不愉快なものに映る。いや、だから「カット」があるってのは「なかったこと」として楽しんでるんだから、みたいな。いわんや、日常で使われた日をや。で、そのあたりにも「この試合、TV的に価値がある」に対する不快感があるのではないかと思う。ま、本当のところはスーパープレーとマラドーナの元気な姿を見られたからいいんだけどさ。