侍 何ものかに依っているということ

遠藤周作「侍」を読んだ。
主人公である下級武士の「侍」はとして領民と共に暮らしていた。だがある日突然「殿」の使節に命ぜられ、メキシコ、スペイン、ローマを訪れることとなる。そして「殿」からのお役目を果たすためにキリスト教の洗礼を受ける。だが7年の旅を終えて帰国した「侍」は、やがて歴史の大きな波に人生を翻弄されてしまう。信仰とは何かを問うた歴史小説である。主人公の「侍」は伊達正宗の家臣、支倉常長がモデルになっている。
作品中、日本人の信仰に関する記述が幾つか見られる。曰く、日本人は現世的な利益に関するものはすぐに理解し吸収も速い。だが彼らは人間を超越した絶対的な存在を理解しない。だから彼らは信仰が個人の問題であることがわからない。それゆえ「自分の祖先がいない楽園(パライソ)など参る気にはなれぬ」と言う、云々。

一神教において、全知全能の「絶対者」の前では誰しも一人の人間として公平に扱われる。それゆえ人間は一人一人が神と一対一の関係で向き合う。だから信仰は個人がそれぞれ一人で決めるべきものであり、他者との関係は判断材料にならない。最終的に自分がどう考えるかが重要であり、「親や周囲が信仰しているから自分も信仰する」という判断はナンセンスなのだ。だがこうした考えは「侍」たちには無い。なぜなら彼らは奉公と、地縁血縁の中で生きてきた人間だからである。

「侍」は谷戸という小さな土地の領主である。この土地は「殿」から与えられた土地である。使節を命じられるまでは、彼の父がそうしたように、この地で領民達と平穏に暮らし、一生を終えるつもりであった。彼にとって谷戸とそこに住む人々は自分自身であり「全て」であったのだ。だから「侍」は「あくまで殿のお役目を成し遂げるための形だけ」に洗礼を受ける。そして洗礼の際、彼の心には妻子や領民、そして谷戸の風景が去来する。

絶対神と人間」という一対一の関係において人間側に必要なのは自我意識である。一対一の関係は、他の誰でもない自分というものを認識するからこそ成立する。他方、家族、領民、土地、主人といった周囲との関係の中で生きてきた「侍」にとって、「自分」はそうした関係の一部として認識される。それゆえ神との一対一の関係は成立しにくいのである。

昨年夏に亡くなった中島らもがこんなことを言っていた。宗教や思想に依拠した生き方は、それられに守られてぬくぬくと生きると言うことだ。俺はそういうものの外にいる。だから自由だけど、生きていくのはすごく大変だ。

日本人にも自我が生まれてきたと言う。だがその自我は、神への信仰で守られていないという点で一神教徒のそれと決定的に異なる。一神教徒達は神と向き合うことで自我を認識し、自分が何であるかを知る。だから一神教徒の理性は「神の教え」によって抑制され、安定を得る。一方、日本人には向き合うべき対象が一神教徒のようには無い。あくまで自我は自分のこと、自分が基準なのである。人は、自分と言うものを自分で一番分かっているようでいて、実は一番わかっていない。だからこそ神の教えの無い自我は暴走し、不安定なのである。

この点を指して僧籍の松原泰道師が、日本人は自我を捨てなければならないと説いておられた。師は親鸞白隠の遺した言動に主に依拠しながら、周囲との関係性において他者に見られる自分すなわち「他我」を見出し、無私の心を発見するよう勧める。

多くの人間は、自分以外のものに依り縋らなければ生きていけないのだ。科学だヒューマニズムだといったところで、人々の信仰心はいっこうに無くならない。らもさんの言う通り、何にも依らずに生きていくのは大変なのだ。らもさんはその不安定さを解消するために酒とクスリに浸った。そういえば三島由紀夫も、自分は日本国民だと言う意識がないと生きていけないというようなことを言っていた。かく言う自分も地縁や血縁、周りとの関係の中で生きている。そういうもんかな。

侍 (新潮文庫)

侍 (新潮文庫)

仏教入門―名僧たちが辿りついた目ざめへの路 (祥伝社黄金文庫)

仏教入門―名僧たちが辿りついた目ざめへの路 (祥伝社黄金文庫)

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)