波田陽区 隠れた春風亭

波田陽区は今年も流行語大賞を狙っているらしい。・・・気をつけろ、一昨年はテツandトモだったぞ」
笑点新春スペシャル、若手お笑い芸人大喜利長井秀和が言った言葉である。一昨年あれだけ一生を風靡した「なんでだろう」だが、流行が終わるとともに飽きられてしまった。テツandトモはマンネリ化を防ぐために幾つか「なんでだろう」以外のパターンを考えているのだが、そううまくいくものでもない。現在、主に笑いの種と成り得ているのはテツ(ギター弾かない方)のオーヴァーアクションである。いやむしろ彼らにとっては「テツのオーバーアクション」こそが唯一の存在意義なのかもしれない。「なんでだろう〜♪」と歌う時に手をどれだけはやく動かせるか、登場の時にどれだけ体を傾けてトモの周りをグルグル回ることができるか、そして一連のネタを通じてどれだけ目ん玉を飛び出させることができるか。見る側の視線はもはやテツのそうした一挙種一挙動に注がれるしか術が無い。しかしなあ、「なんでだろう」って、あれが流行ったのなんでだろう。いや、オヤジギャグを言うつもりは無かったんだけどさ。
で、ギター侍こと波田陽区。いや、波田陽区ことギター侍か?まあどっちでもいいや。ギターを持って浪人っぽい和服を着ていて、そして色んな人や物を「メッタ斬り」してるから「ギター侍」なのであろう。ただ、そうしたギター侍的な要素は彼の芸人としての生命線ではない。なぜならギター侍に期待されているものは声の大きさだからである。「・・・ていうじゃな〜い、でも」以降の「・・・ですから、残念!」をどれほど大きな声で言うことができるか、こここそが波田陽区波田陽区として認識される瞬間である。つまり彼の声量はテツのオーヴァーアクション(具体的には目ン玉のひん剥き具合)と同じ意味を持っている。
「声のでかさ」がウリの芸人と聞いてまずはじめに思いつくのは林家こん平師匠である。田舎出身ギミック、第二の故郷ギミック、荷物に若干の余裕ギミックなどこん平師匠には色んなお決まりネタがあるが、なんといってもこん平師匠といえばちゃらーんである。もう、「ちゃらーんである」って、後半の「である」が完全に「ちゃらーん」に負けてるよ、すごい。この意味不明な言葉に挨拶としての説得力を持たせ、成立させたのは師匠の声の大きさである。大きな声はそれだけで滑稽であり、なんでもないことを面白くさせる効果を持っている。だからこん平師匠は時々その大声で、自分や好楽師匠の滑ったネタを面白いものにしようと繕い、ある程度成功している(師匠、早めの復帰を願っています)。
波田陽区の大声にも似たような効果がものの、師匠とはやや異質のものである。師匠が満面の笑みを伴って発声するのに対し、波田はどこか冷静である。なぜかというと、大声を出す以上顔は崩れているのだが、目が観客(あるいはカメラ)の方を見据えており、しかもしっかりと座っているからだ。オチを言う際に芸人が冷静だと、観客は「これは計算し尽くされたオチである」というメッセージを受け取る(天然の代表とも言えるジミー大西の目が泳いでいたことを思い出すとわかりやすい)。だからそれなりにレベルの高いオチでなければウケないわけだが、波田のオチは「清原は番長というけど試合に出てないから裏番長ですから」とか「マギー一門はマジシャンというけど使っているのはデパートのマジックですから」とか、そんなもんである。こうしたネタを計算し尽くしたギャグとして発し、大声によって面白さを増加させているのだ。なんていうか、春風亭昇太と同じ匂いを感じる。まあそんなわけで、この一年で波田陽区の声はますます大きくなっていくに一票。