マツケンサンバ ちょんまげの問答無用性

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昨年暮れの大晦日、曙がまた負けたり高田延彦が「ついでにとんちんかん」のヌケサク先生ばりに「いきなり尻見せ」をやってのけたりといろいろでしたが、何と言っても紅白である、マツケンサンバである。
ちょっと前に田端義夫の「ちょんまげマンボ」について書いた。歌謡協会の会長であり、日本のブルースマンと呼んで差し支えないバタやんが「たまにはあの娘に御用にされたい まぁ〜んぼっだぁ まぁ〜んぼっ ちょんまげマンボでちょいマンボッ」と軽快に歌うそのサウンドはかなり衝撃的なのだが、マツケンサンバにも似たようなインパクトがある。なんというか、「あのバタやんがちょんまげでマンボ!?」という衝撃(笑撃)と「あの松平健がサンバ!?」という衝撃(笑撃)は似ているんだと思う。
松平健の代表作と言えばなんと言っても「暴れん坊将軍」である。将軍という地位を隠しながら江戸の町を歩き回り、世にはびこる悪を自らの手で成敗する吉宗の物語。水戸黄門ほどのお馴染み感、マンネリ感は無いのだが、オープニングテーマや殺陣シーンのBGM、若山弦蔵氏の朗々としたナレーション、サブちゃんのエンディングテーマなど、さらには刀の「カチッ」って音や「成敗!」という決め台詞など、皆が思っている以上に日本人の耳には「暴れん坊の音」が残っている。要するに、みんな結構暴れん坊を観てるんである。だからこそ松平健が腰を振り振り「オ〜レ〜オ〜レ〜♪」と歌うのを見て「あの正義の味方の上様が・・・」と驚いてしまうのだろう。田端義夫の醸し出す「哀愁」「心に沁みる」といったソウルが「ちょんまげマンボ」と彼の間にギャップを生んだように、松平健の持つ「上様」属性は「サンバ」と「マツケン」のつながりに意外性を与えたのだ。あ、ただでさえ「マツケン」と「サンバ」につながる必然性は無いか。
マツケンサンバ、必然性が無いと言ったらきりが無いのである。あの金ぴか衣装に白塗り、流し目、アミーゴ、セニョリータ、サンバ・ビバ・サンバ。もう問答無用なものがいくらでもあるのだ。もう上様やりたい邦題。
日本人はひとたび誰かをスターと認めると、その人の行動や言動を無感覚に全肯定してしまう傾向が強い。その証拠にこの国で国民的スターといえば「座右の銘は?」と聞かれて「両方とも1.5です」と答えるスポーツ選手や、ドラム叩きながら「へっへっへ、ボディだチンだ」と発言する俳優である。それからアイドルグループが「寿司食いねえ」とか「へいへいありがと毎度あり」なんてタイトルで歌を出してもそれなりにヒットする。一度肯定してしまうと、こうした天然ボケな点やダサダサな点も問答無用にプラス評価されてしまうのだ。だからマツケンがサンバを歌ったって少しもおかしくないのである(いや、ホントはおかしいけどさ)。
ただ、マツケンサンバの持つ問答無用さの原因は、「上様」および松平健の持つカッコ良さだけではないように思う。それ以上に「時代劇」というジャンルの持つ力が影響を与えているのではないだろうか。時代劇は見る側に「前提としての了解事項」を要求する。例えば「なぜ主人公は悪人の屋敷の庭に簡単に侵入できるのか」「どうして殺陣シーンで悪人の手下達は主人公に一人一人襲い掛かるのか」「なぜ遠山の金さんの顔は刺青を見せるまで思い出されないのか」「なぜ悪代官がいつも川合伸旺なのか」と言った疑問には「聞いてはいけない」という暗黙の了解が視聴する際の前提である。マツケンサンバも然り。何故マツケンが踊っているのか、何故サンバなのか、何故バックダンサーは変な銀のボンボンを持っているのか?こうした疑問は松平健を筆頭にステージのパフォーマーたちがちょんまげに和服という時代劇スタイルで登場している時点で「聞いてはいけないこと」になっているのだ。
もちろん、ドラマを見る際の前提としての了解は時代劇でなくともある。だが時代劇の場合はその問答無用度というか、わかっているけど聞いてはいけない点というのが際立っている。「越後のちりめん問屋の隠居」「旗本の徳田新之助」はそれぞれ「葵の印籠」「『余の顔を忘れたか』というセリフ」を以ってはじめて「先の副将軍水戸光圀公」「上様」と理解される。「普通気付くだろ!」とか「そんなに毎回面割れしてたらもうバレバレだろ」という疑問は一切考えてはならないのである。だが、問題の核心はもっと奥にある。俳優達がほぼ全員装着している時代劇専用のかつら。特にちょんまげである。かつら技術、メイク技術が進歩しているとはいえ、前頭から頭頂部にかけての「ハゲ」の部分はいかんともしがたい、どう頑張って見ようとしてもバレバレのヅラである。上様もヅラ、ジイもヅラ、越後屋もヅラ、サブちゃんもヅラ。だから時代劇を観る時には「役者が全員ヅラを被っている」という肯んじ難い事実を「なかったこと」にしなければならないのだ。もちろん「そもそもなぜ彼ら江戸時代の人々はちょんまげなのか」という疑問も挟んではならない。どうだ、この問答無用さ。どうだといわれても困るか。
つまり「マツケンサンバ」ブレイクの原因は、時代劇におけるちょんまげに象徴される問答無用さと、それを好む日本人の心理にあるのだ。だからどうしたというわけでもないが。

マツケンサンバII

マツケンサンバII