渡し損ねたラブレター

家から山のふもと沿いに車で20分ほど進むと見晴らしのよい丘に出る。視界を遮る建物や森林のないその丘からは、私の住んでいる盆地が見渡せる。春には柔らかい日差しの下花々が咲き誇り、夏には青々とした露地の上を風が凪ぐ。とても美しい場所だ。
この丘の見晴らしが良いのには理由がある。六十数年前、ここは日本軍の演習場だった。
先週、母に戦中の話を聞いた。
太平洋戦争当時、小学校に入りたてだった母には「戦争」という当時の状態に対する明確な視点があるわけではない。それは単に幼かったからだけではなく、家が山麓の農家であったため食料に困窮せず、空襲にも殆ど遭わなかったことが要因。あと戦火の有る無しに関わらず貧しかったことも理由のひとつ。
とはいえ空襲警報の記憶は有る。山村に壕は無く、里山に皆で逃げた。木々の隙間からB29を見たという。
はじめのうち先生たちは「警報が鳴ったら教科書を持って避難しなさい」と指導していたが、やがて「全部おいて避難しなさい」となった。皆それに倣ったが、どこかから疎開してきた同級生はどうしても教科書を持ってきた。理由はよくわからない。
里山へ逃げる際、低学年は高学年に背負われて逃げた。上に兄弟姉妹のいない母はお姉さん達と一緒に行動できるのが嬉しかったという。
玉音放送の事は覚えていない。聞いていないかもしれない。終戦を実感したのは教科書に墨が塗られたのを見たとき、それから父親が帰ってきた時。「もう戦争は無いんだ」ということより「お父さんが帰ってきた」ことが嬉しかった。
戦火には遭わず肉親を亡くすことも無かった。けれども母は以前私に言った「戦争は嫌いだ」と。
丘の話に戻す。子供だった母が演習場の近くで遊んでいたとき、ある若い兵隊さんに声を掛けられた。
 「お嬢ちゃん、これ、あそこにいるお姉さんに渡してきてちょうだい」
兵隊さんは母に折りたたんだ紙を渡し行き先を示す。指し示された先には女学生がいてこちらを見ていた。兵隊さんは女学生に恋文を渡そうとしていたのである。
ところが母は未だ小学校へ入りたての子供、手紙を受け取ったものの状況が理解できない。ぽかんとしている間に渡す機会を逸してしまい、女学生は行ってしまった。
「それで兵隊さんに怒られたんだけど当時はよくわからなくてね。後々になって悪い事したなあと思ったよ。あの兵隊さんは出征したのかもしれない」と母。
まだ休みがある。また車で景色を見に行って、深呼吸してこようと思う。
下記は母に話を聞く前に読み始めた本。先ほど、読了。

「終戦日記」を読む

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