サッダーム・フセインの死について

ヒールにはヒールと認知されるに至る経緯を辿らされてヒールとなるるのであり、一方でベビーフェイスはベビーフェイスと認知させるための言説を駆使して初めてそれとなる。だからあるヒールを全人的にヒールとして認知すべきではないし、同時に全人的なベビーフェイスというのもありえない。ある人格が悪であったか善であったかを判断しなければならないのなら、その人格のどの部分をヒールとし、どの部分をベビーフェイスとするかについて判断した上で総合的に判断されるべきものである。
クーデターで政権を握った頃、もちろん権力欲はあっただろうが、サッダームはよき国を築かんとした若き指導者であったに違いない。それはブッシュJrが大統領に立候補した時とさほど変わらぬ意思だったろう。イランでパフレヴィー政権が倒れたとき、資本主義社会の防波堤となったイラク捨て駒の善だった。

クルド人虐殺。今でもクルド人にとって悲惨な状況が続いているとされるトルコはEUへの加入がほぼ確定的である。一方でアラブ人、アルメニア人とのゆるやかな経済的連携で存在を黙認され、クルド人の街を持ってさえもいるシリアは相変わらず「テロ支援国家」の烙印付きだ。そしてイラク。サッダームによるクルド虐殺の具体的内容、惨劇の経緯と結果は、サッダームの処刑によって永遠に明らかにすることができなくなってしまった。

結局のところ大量破壊兵器は無かった。生物兵器クルド人に使われたかどうか、そこにサッダームの意思決定が存在していたか否か、もはやわからない。サッダームの意思の介在を証明することは、劣化ウラン弾が人体に放射線障害を生じさせるということを米国政府が認めることよりも難しいだろう。

サッダームが悪だったという事実は歴史に残る。だがどう悪だったかについて、クーデターで国の変革を望んだ人間がなぜ独裁者に成り果てたのかについて、事実は闇の中である。

世界でもっとも古い歴史を持つメソポタミア。2千年都市バグダードバーミヤンの石仏破壊に異を唱えたものはいたが、アラブ屈指の出版都市であったこの街の荒廃を嘆く者は少ない。サッダームという恐怖の箍がなくなった今、イラクにおける民族の軋轢を押さえつける要素はまだ見つかっていない。